兄弟愛⭐️フィラデルフィアにある教会

キリストを分かち合うブログ

キリストにある勝利〜今朝の祈りから

キリストにあるならば、圧倒的勝利者となるというみ言葉があります。
また、キリストにある者は罪を犯すことが出来ないともあります。
以前から見て聞いていた言葉ですが、今朝、私の中(霊の中)でアーメンでした。
これが聖書の言葉がロゴスからレーマになるのでしょう。
自ら罪や敵(サタン)に対して戦い奮闘する必要はないのです。
ただ、キリストにあるかないかだけです。
まさにキリストが勝利された上に勝利を得るのです。(黙示録6:2)

ローマ3:37
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

 

また、キリストにある者の前進を阻む大きな問題に出くわすことがあります。
それは、旧約のカナン人のようです。(サタンとしての予表)
しかし、神はあえてそれらを放置しているようなことがありますが、それはあえて私たちを成長させるために、子として扱っておられ用いられるのです。
それらを安易な方法で妥協するなり、また避けるなりするなら、それらに飲み尽くされ霊的な損失や停滞を招くと思います。
私たちはキリストによって立ち向かうことで、敵をえじきとするのです!
これらによって、私たちはさらに養われ、キリストの身丈まで霊的成長を遂げるでしょう。

この世のものや肉による安息はなく、霊の安息は霊によります。

 

民数記14:9
ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

10の門・主の再臨の備え

今年の4月になりますが、札幌に在住する兄弟姉妹たちと交わりがあり、アメリカから来たある兄弟の証を思い出したので、少し分かち合いたいと思います。
彼はネヘミヤ記 3章からごく一部のユダヤ人が破壊された神殿の再建に携わったエルサレムの再建から証をされました。
その再建のあとに主イエスが人となって来られました。
今の時もその予表として、サタンの欺きによって破壊された教会を一部の忠実な聖徒らによって、キリストのからだなる栄光の教会(エペソ5:27)を建てあげ、主の再臨に備えることを主が望んでおられることを証されました。

ネヘミヤ記3章には再建される10の門があります。
この10の門からクリスチャンがこの世において歩む行程を表し、キリストの勝利をもって、更に聖徒が勝利を歩むべき道を示しているのではないでしょうか。
そして、この10の門を備えた聖徒たちの霊的神殿の再建によって、主が来られる一つのことだと思います。つまり主の再臨は自動的に訪れるのではないということです。

下記はその10の門から証された簡単な内容と私が勝手にチョイスしたみ言葉です。

これがクリスチャンひとりひとりに求められている真の奉仕ではないでしょうか。

 


【①羊の門】
主の命との関係、信仰によって主ご自身を経験する。

🔸ヨハネ10:9
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます

【②魚の門】
人をとる漁師。キリストを伝える。主に従順。

🔸マタイ4:19
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

【③古い門】
十字架の経験、過越の羊の血→ 旧約の古くから十字架を啓示。

🔸1コリント5:7
新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

【④谷の門】
十字架のあとの苦難。
この世において苦しみの経験があるほど命の成長がある。

🔸ローマ8:17
もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
🔸詩篇23:4
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。 あなたが私とともにおられますから。 あなたのむちとあなたの杖、 それが私の慰めです。

【⑤糞の門】
汚いもの、神の要らないものを捨てる。
握り続けているものを処分する、霊的に健康な状態。

🔸マタイ16:24
イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
🔸コロサイ3:5-10
 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。
あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。

【⑥泉の門】
内側から生ける水を主から享受、内側からの喜び。
聖霊による享受。

🔸ヨハネ7:38
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。
🔸2コリント8:2
苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。

【⑦水の門】
み言葉による洗い、み言葉の経験、深みの経験。
知らないうちに清められる。

🔸エペソ5:26
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

【⑧馬の門】
サタンに対する霊的な戦い、主のために戦う。
これは私が同意する解釈ですが、黙示録6:2の「白い馬」はキリストの勝利に基づいた使徒行伝以降の終末まで働き続ける聖徒たちを啓示していると思います。

🔸1コリント15:57
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
🔸エペソ6:11-12
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

【⑨東の門】
東は太陽が昇る方角、門衛が太陽を見る。
主の再臨を目を覚まして見張る。

🔸マタイ24:42-43
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

【⑩招集の門】
主が来られるときに、聖徒は検閲される
来られる前に自ら検閲する

🔸マタイ24:31
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
🔸マタイ25:4
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

ノアの日のようだ

先週まで長く続いた雨。
いつまで降り続くのだろうと思っているとき、ノアの日のようだという聖書のフレーズ(マタイ24:37〜)が思い浮かび、決してこの世は洪水で滅びることはないけど、主の日、いわゆる終わりの時が突如訪れることを思い出しました。
終わりの時は、ノアのように神に忠実でなければ盲目なのでしょう。
たぶん、飲んだり食べたりめとったり…とこの世が平和な時に訪れるのかもしれません。

 

1テサロニケ5:3
人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

再開します

記事がご無沙汰してました。
先日、クリスチャンのポータルサイトのキリストインフォ様に登録頂いたので、新たに再開しようと思います。
私は元々、持続性がないので、いつまで出来るか判りませんが、キリストを証すべきと思ってますので、ご覧頂いている方がおりましたら、引き続きお付き合い下さい。
また、コメント頂けると幸いです。

これからもクリスチャン同士の集まりや日々気付いたことなど、分かち合っていければと思いますが、最近、キリストのからだなる教会について、教えられたことや集まりで分かち合ったことなども追って記事にしていきます。
また、キリストインフォの管理人様から私宛てに頂いたメッセージに共感しましたので、下記ご紹介します。
神の御心は栄光の教会です。(エペソ5:27)

私は主イエスが人の罪のゆえに十字架に付けられ、葬られ、三日目によみがえられたこと。そして、昇天し神の右に座していることを信じてます。罪赦され、永遠の新しい命が与えられていることを感謝します。そして、やがて主が来られ、サタンが葬られ、キリストの王国がもたらされることを切に待ち望んでいます。そのために聖徒たちは一点キリストの名のもとに集まるべきであると信じてます

札幌にて

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この写真は先月、札幌に行ったとき観光で訪れた支笏湖の写真です。

10月中旬でしたが、紅葉が真っ盛りで、終わりかけの場所もあったくらいでした。
札幌には6人くらいのあるクリスチャンの集まりがあり、集会所専用の一軒家に集っており、そこに3泊4日寝泊まりさせてもらいました。
彼らはそれぞれ自宅があるのですが、日中は共に3食食事をし、お互いの証しなど交流したり、観光に連れて行ってもらったり、主イエスの十字架を記念してパンさき(聖餐式)したり・・・。
彼らの愛に基づいてもてなされ、とても有意義で楽しい時間でした。
聖書にある使徒の時代、家々で集まっていた姿を垣間見るようでしたが、教会は特別なものではなく、それは自然に生活の中にあるようなものであり、キリストの愛に基づく集まりであると改めて感じました。
教会はキリストのからだというように、キリストを頭としてクリスチャン一人一人がキリストと直接の関係であり、体の器官であり、それが集まった集合体が教会です。